隣の芝は どうしていつも 青いのか

誰かにとっての「隣の芝」になれるまで、言葉を考え、言葉に悩む。

034 ふさわしさ

「ふさわしさ」とは何だろうか。

 

ふさわし・い〔ふさはしい〕【相=応しい】の意味

[形][文]ふさは・し[シク]《動詞「ふさう」の形容詞化》
似つかわしい。つり合っている。

出典:デジタル大辞泉小学館


辞書にはこのように書いてあった。

 

 

でも、僕には辞書で書かれた以上の意味合いが、「ふさわしい」には

含まれているような気がしているのだ。

 

単につり合いが取れているだけでは無く、

 「その行動をするに適している」
 「その行動を起こす条件をクリアしている」
 「その行動をするに値する」

それくらいの重さがあるように思うのである。

 


いつからかはもう忘れてしまうくらいずっと前から、

特に最近目立つようになってきたことがある。

 

 

"ぼんやりながらやってみたいこと" について。

 

 

何の障害も無く、それをやれる環境が揃っている。

それなのに、気付くと

 (自分はそんなことをする身分に無い)

 (自分はふさわしくない)

と思い込み、新しくやってみることを遠ざけ、逃げるような

生き方をするようになってしまった。

 

 

こんなことを思う時点で、既にもう何かが足りていないのだが、

一方でこれは、非常に楽な生き方でもある。

 

 

何かと適当に理由をつけ、だらだらと時間を浪費しておけば、

自ずと明日はやってくる。平日になれば、仕事が待ち受けていて、

否応なしに現実へ引き戻してくれる。

 


この生き方を続けると、ますます多くのことに対して

「ふさわしい」と思えなくなっていく。

 

 

そういった状況に直面することが、加速度的に増えていく。

 

 

何も出来なくなる。何も発せなくなる。

負のスパイラルにしかならない。

 

 


救いを求めるように自分が好きなものに没頭したとしても、

そういうものから自分は何を得るのか、進んで自分の中に取り込まない限り、

それは一時的にスパイラルから逃げているだけで、すぐに元に戻る。

 

 

何がこうさせているのか。

 

怠惰な行動をすることが、これ程までに精神的堕落を作り上げることに

気付いた今、ここから改めて這い上がり、そうならないように生きるには

何が必要なのか。

 

 

答えは人それぞれあるだろうし、僕にとってのその答えが何なのか、

今は分からない。

 

けれど、僕の場合「考えること」と「発すること」が減ったことで

こうなっているような気はしている。

 

少なくとも、こうなってしまった今の自分を昔の自分と比較した時、

明らかにこの2つの能力は低下している。

 

 

事実、いろんな人と会って話す度に、言葉が以前より枯渇していると

気付かされる。

 

 

 

情けない。このままではいけない。 

 

自分の気持ちに対してふさわしい人間になれるように生きていかなくては。

そう思える出来事が起こってからでは遅いのだ。

 

 

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面白い文章では無いが、こうして自分の思っていることを自分の外に

置くことで、ごまかしを無くす。

 

 

嫌かもしれないが、これも紛れもない自分なので、受け入れて

やっつける。

 

昨日の自分をやっつけられる自分になれれば、少しは変われるかな。

 

 

 

秋は何かと感傷的になりやすい体質なんだけど、それはたぶん、

空がこんな風に曖昧だからだと思う。

 

関西生活の中で好きな風景の1つ、渡辺橋からの空。
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